新旧訳聖書を読むのワ-クショップ3回目 2 言葉の届くところ
聖書を読むのワ-クショップをして、言葉の発するところ、言葉の届く、ところ届かないところが、それぞれ人により違うのではないか。
そう思う。人の生まれ育ち、生きてきた過程は異なり、人の心の立ち位置、奥底に普段あるのか浅いところにあるのか、により、言葉の届く
ところ、生まれる所は違う。それの一端を感じることは、得難いのか怖いのか揺れ動く。聖書の言葉は、何かかある
、
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心の深いところと浅いところを時間関係なく、行き来するのは芸術家、心理学者、そして以外理解されていないが、政治の中に生きてきた
人々であろう。その世界には数奇なことに私は縁があり、宿痾を感じる。聖書のワ-クショップで改めて思う。
そのすべて超えてを包み込むような言葉を探してきた。そして作ろうとした。それは名もなき人々の中にあるのに、政治や芸術はそこに届く
のだろうか。
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名のなきアイヌの人が、自分の人生を話し、そっとあなたのこころに触れさせてくださいと話すそうだ。その声、ぬくもり、を
私は今まで、出せたのだろうか、そっと肩に頭をなでるように。心の神殿を壊さず扉にノックできたのだろう
それとも身体の奥から浮かび上がるほんとの言葉をぶつける時が来るにのだろうか。決めるのは私だ。
主はそれを見つめている。それは信じる。それが私の信仰宣言である。