祈りと語りの核心へ──一神教・創造主・沈黙の信仰をめぐる内的対話
はじめに──“語ることの困難さ”から始める
宗教を語ることは、いまやかつてないほど困難である。
科学と技術の急速な進展は、創造主や一神教の語りを「過去のもの」「説明不可能なもの」として周縁へ追いやってきた。
だが私は、それでもなお、一神教、創造主、宗教の定義、不公正という問いを自分の核心として抱えている。
そして今日のワークショップでも、聖書のたとえ話、倫理的な罪の問題、物語や労働の中の祈り──多様な声が集まり、それぞれの信仰と葛藤が交差した。
その交差点を、私は「沈黙の信仰」「語ることをやめない信仰」として記述したい。
1. 種まきのたとえ──語ることの始まりとしての“土地”
マタイ13章の「種を蒔く者のたとえ」は、宗教の定義そのものを問う。
それは**「受け取る力」と「育てる沈黙」**の両方を要求する物語である。
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道端、石地、いばらの地──言葉を拒む土地
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良い土地──問いに耕された沈黙
このたとえは、「宗教とは何か」を制度ではなく、「語りにどう応答するか」という実存的態度に置く視点を与えてくれる。
宗教とは、神の語りに対し、私たちが“どのような地”であるかを問う運動である。
2. 語りづらさの中の神──罪・悪魔・聖霊の名をめぐって
旧約聖書には、近親相姦や民族の裁きといった、現代倫理と衝突する記述がある。
ワークショップでは「ロトと娘たち」や「姦淫」「聖霊と悪魔」などをめぐり、次のような問いが共有された:
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善と悪は固定されたものか?
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聖霊は感情なのか、存在なのか?
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“赦し”とは行為か、それとも状態か?
宗教とは、「語り得ぬもの」を前にしても、語りつづけようとする意志である。
それは文学や哲学の言葉を超えて、沈黙と嘆きの中に神を見出す姿勢でもある。
3. 因果応報とキリスト教──報いの構造を超えて
仏教的な「因果応報」は、因→果の構造で世界を説明する。
しかしキリスト教では、人間は救いを“受ける”存在であり、報いを超える恵み=Graceが根底にある。
これは「不公正な世界における希望」の鍵となる。
「正しい人が苦しみ、悪人が栄える」ことに耐えられるのはなぜか?
答えは、「恵みが行為を超えて働く」という信仰である。
4. 信仰の場としての物語と労働──田んぼ、ロード・オブ・ザ・リング
ある参加者は、死の間際に読んだ『ロード・オブ・ザ・リング』や、田んぼの作業の中に「神の気配」を感じたと語った。
これは、**制度的宗教を超えた「信仰の経験」**である。
ここに、転びキリシタンや解放の神学、山村工作隊の思想的実践と通底するものがある。
それは「語られなかった声」「制度化されなかった祈り」が、土地・労働・物語の中に根付いているという信仰である。
5. 太郎次郎社・山村工作隊と宗教の定義
太郎次郎社や山村工作隊は、「制度に抗する教育と生活実践」を模索した民衆運動である。
彼らの試みは、**解放の神学と通じる「宗教の根源的再定義」**であり、次のような問いを内包していた。
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神は都市ではなく、山村に住むのではないか?
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宗教は祈りよりも、働き方・暮らし方にこそ宿るのではないか?
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教会ではなく、田の畔で“神の声”が聞こえるのではないか?
この問いは、「創造主とは誰か?」を、聖書の創世記だけでなく、日々の営みに照らして再定義する試みでもある。
6. 一神教・創造主・沈黙・不公正──私の核心へ
私は33年間、役所で働いてきた。
制度の内側で、矛盾や不条理、声を失った人々と向き合いながら、一神教的な問いを手放すことはなかった。
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**創造主とは、「理屈では語れない善き力」**だと私は思う。
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一神教とは、「誰にも見捨てられていない」と信じる意志のことだと私は感じている。
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そして宗教の定義とは、「対話をやめないこと」なのかもしれない。
だから、私は祈る。
制度の隙間で、誰にも届かない祈りがあると知りながら。
言葉にならない声に耳を澄ましながら。
おわりに──祈りとは「語らないものを抱えながら語りつづけること」
本日のワークショップでは、聖書・仏教・文学・生活・死・物語・農作業といった領域が交差し、
「祈りとは何か」「語るとは何か」「信じるとは何か」という問いが、静かに、確かに浮かび上がった。
それはまるで、言葉になる前の祈りを、参加者みんなで耕していたようだった。