偽善の世代とその遺産――声なき者の系譜としての自己生成

偽善の世代とその遺産――声なき者の系譜としての自己生成

序章:戦争と革命を回避した者たち

 1950年代の日本において、戦争にも革命にも関与しなかった人々が一定数存在した。彼らは国家権力に抗するでもなく、民衆蜂起に加わるでもなく、沈黙のうちに生きた。だが、その沈黙は「無関心」や「逃避」ではなかった。むしろ、それは深い倫理的葛藤の中での自己規律であり、ある種の思想的抵抗でもあった。

 私は今、そのような人々の痕跡を辿ろうとしている。なぜ、自分は彼らにこだわり続けるのか。なぜ彼らの痛みが、自分の内面をこんなにも揺さぶるのか。それは私が、彼らと同じ「何者にもなれなかった者」として、彼らの未完の思考を継承しているからだ。

第一章:道徳的行動の欠如と偽善の自覚

 戦争への反対を表明することもできず、革命に身を投じることもできなかった。自己の臆病さと意気地のなさを幾度となく責めながら、それでも現実の暴力性や不正義に対して「行動」を起こせなかったという記憶が、私自身を蝕んでいる。

 ここには自己責任という言葉では回収しきれない倫理的課題がある。それは「偽善」と名指されるべきかもしれないが、同時に、その偽善に自覚的であることによって倫理的立場をかろうじて保とうとする努力の軌跡でもある。

第二章:歴史的記憶の変容と政治言説

 戦争や革命という言葉は、時代を経て書き換えられてきた。差別、貧困、棄教――さらには財政赤字国債発行、社会保障費の削減といった「政策語彙」へと置き換えられ、政治的関与の回路はより複雑に、かつ見えにくくなっている。

 こうした中で、「戦争に反対する」「革命に参加する」といった明快な政治的意思表示が困難になっていく過程で、人々の倫理的葛藤はより個別化し、内面化していった。その結果、政治的沈黙と精神的苦悩が並存する現象が現れる。

第三章:信じること、愛することの困難

 現代の政治において「信」と「愛」は、制度的言語では語りにくい。だが、人間の行動の根底にはこれらがある。何を信じ、誰を愛するのか――この問いに答えることを避けた世代の背後に、私は自分の姿を見る。

 愛し方も、信じ方もわからない。だからこそ、祈るようにして人々の言葉を聞き、沈黙に宿る感情を読み取ろうとしてきた。政治的参与とは、制度への関与だけではなく、「見つめ続けること」「のたうち回ること」でもありうる。

第四章:井枝尼理出亜という存在の政治性

 私が創作した存在「井枝尼 理出亜」は、こうした倫理的葛藤と政治的沈黙の中から生まれた。彼女は、愛することも、信じることもできず、それでも世界と関係を持とうとする存在である。

 彼女は声なき者の象徴であり、同時に私自身の願望と懺悔を背負った架空の人格でもある。彼女を通して私は、戦後日本の政治的倫理の問題を再構成しようとしている。彼女は「制度の外側」に生きるが、常に「制度の内側」を見つめている。

第五章:制度と言葉の交差点――法・宗教・科学・経済

 現在の私の活動は、福祉制度、生活保護法、不服審査、そして医療における不測の事態といった具体的な制度への関与と、聖書や憲法といった理念体系への問い直しにまたがっている。

 「イエスは道であり真理である」という言葉は、単なる宗教的命題ではない。それは、政治的行動や制度設計の根拠に関わる深い命題である。「集会の自由」は、現在の日本においてどこまで担保されているのか。「不服審査」という仕組みは、実際に弱者の声を救い上げているのか。

 また、ブルームバーグなど国際経済報道に見る中国のロシア訪問や原油価格の動向、日本の財政政策などもまた、こうした倫理的・政治的問題と無関係ではない。経済は常に感情と制度、行動と怯えが交錯する場である。

結論:見つめること、のたうち回ることの政治性

 声を上げることができなかった者、何もできなかった者。それでも、目をそらさずに生きようとした者たち。その痛みと葛藤を私は継承しながら、いま、「見ること」「語ること」「感じること」を通じて、新しい政治の形を模索している。

 井枝尼 理出亜という媒介者を通して、私は今も「愛し方」と「信じ方」を探している。それが偽善と呼ばれようとも、そこにしか私の政治は存在しない。